ご存知、天正10年(1582年)明智光秀が、織田信長を京都の本能寺において暗殺した事件ですが、なぜ家臣である明智光秀が、自分の主君を殺したのか…?という謎は、様々な諸説、原因があるといわれています。
歴史書を読んでいると、明智光秀という人は、かなりプライドの高い人ではなかったかと思われます。そこで、こんな仮説を立ててみました。
織田信長という人は、家臣をあだ名で呼ぶことを好きだったようです。
有名な羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のことを「猿」、「はげねずみ」などと呼び、明智光秀のことは頭の形から「金柑(「きんかん」・もしくは「きんか」)」と呼んでいたそうです。
右の肖像画では、烏帽子をかぶっているので、頭の形の真偽はわかりませんが、顔から受ける印象は線の細い、神経質そうな人物のような気がします。


明智光秀
(1528?〜1582)


きんかん‐あたま【金柑頭】

毛髪がなくて金柑(きんかん)のように赤く光った頭。はげあたま。きんかんあたま。きんかつぶり。金魚頭。
   国語大辞典(新装版)小学館より.

経験上、このような頭の形をしている人は、頭皮が引っ張られ緊張状態になります。また後頭部が絶壁の方が多いのですが、おそらく赤ちゃんのころの寝かせ方の影響で、頭蓋骨の形がいびつに頭頂部に押し上げられたのではないかと思われます。



織田信長
(1534〜1582)

秀吉は,身分の低い所から出世していった人ですから、『猿』と呼ばれてもプライドが傷つくこともなく、逆に信長に『愛称』として可愛がられている証しとして喜んでいたのではないか…とも思えます。
ところが、明智光秀という人は、信長に仕える前の経歴は謎なのですが、決して低い身分の出身ではないことは確かなようです。そんな人が肉体的な欠陥(?)を『あだ名』にされることには抵抗感があったのではないかと思います。

猿と呼ばれていた
豊臣秀吉

(1537〜1598)

『あだ名』というのは言う方は悪気がない軽い気持ちでも、言われている方からすると傷ついていることも多いのです。笑って受け流せるほど度量の広い楽天家なら別ですが、顔に出せないストレスは、かなりのものではないでしょうか。
信長が愛した「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり…」幸若舞の「敦盛」の1節に叶うことなく、49歳の年齢で生涯を終えたのです。
明智光秀の生まれた年が正確であれば、本能寺の変では、光秀55歳、信長49歳となります。
もし、仮にあなたや、あなたのご主人が会社で50歳を過ぎて、家柄も良く、学歴もあって、再就職した会社でも結構良いポストについて、部下も何人もいるにもかかわらず、年下の社長から肉体的なことを社員の前で『あだ名』で呼ばれるとしたら我慢できますか?
現代においても、学歴の高い人や、企業や役所で高い位置にいた人ほどプライドが高く、自分より年下や能力がないと思っている人の下で働くことにストレスを強く感じている人は多いと思います。

庚申講(こうしんこう)酒席における信長の怒りと光秀の怨恨・・・
柴田勝家ら重臣二十人ほどが揃った庚申講の酒の席でのこと、途中でトイレに立った光秀を見とがめて、信長はその横着ぶりをののしり、鑓(やり)を取って後を追うや、その穂先を光秀の首筋に当てて「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めたとの記述があります。『義残覚書』『続武者物語』『柏崎物語』


もしかすると、明智光秀が「きんかん頭」でなくても、織田信長という人はきっと別の“気に障るアダナ”で、呼んだことでしょうから本能寺の変は避けられなかったことかもしれません。
しかし、瞬間的にムカッときた衝動的なエネルギーより、長い期間に積み上げられた恨みのほうが、爆発する時のエネルギーは強いものです。
くれぐれも、お気軽に人を傷つけるような、心ない「あだ名」などで呼ぶのは止めましょう。





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